「・・・または20フィート、30フィート、あるいは40フィートの針金を用意してその上端を釘で固定し、他端には皿をつけて重りを載せる・・・
そしてこの皿と地面との間の距離を測ってこれを記録する・・・
重りの大きさを何段階かに変えてそのたびに伸びを測って両者を比較してみると、伸びの比はいつでも重りの比に等しいことがわかるだろう」。
・・・フックはまた引張りを与えた針金その他種々の物質内を伝わる音の伝達の実験をもしています。
「1ファージング(約200m)以上離れていてもささやき声を聞くことができ、うまくやればこの10倍の距離でも可能」と書いています。
彼はその他に空を飛ぶ機構にも興味を抱き、「固定翼」で飛ぶことができると信じていました。
彼はこのように立派な仕事をたくさんなしとげた科学者でしたが、ニュートンとかホイヘンスといった当代の大科学者たちと激しい争いをした結果、彼の評判がいたく傷ついたのは不幸なことでした。
フックの肖像画は生前に少なくとも1度描かれたのは確かですが、現在では1つも、王立協会にさえも残っていません。
1696年、フックの健康は急速に衰え、7年の永きにわたって病をわずらったあげく1703年3月3日、ロンドンで死去しました。
フックの研究は多方面にわたり、懐中時計の天府車をばねで制御すること、自在継手(カルダンの発明という説もあります)、ばね秤、反射望遠鏡(これは後にニュートン式望遠鏡ともいわれるようになった)など・・・
これらはすべて彼に負うています。
1676年には物質、とくに金属の弾性的性質について実験を行い、1678年には有名な論文「De Potentia Res-titutiva(ばねについて)」を著しました。
現在フックの法則として知られているものはこの中に書かれています。
この法則は「荷重によって棒やばねに生ずる伸びは、弾性材料では荷重の大きさに比例する」というものです。
あらゆる弾性体の力学の研究はこの単純な法則の上に成り立っています。
この法則をフック自身がどう述べているかを、次回引用しておきましょう。
1665年に王立協会が設立されると彼はボイルの推薦で博物館主事となります。
そこで開かれる集会ごとにそれにふさわしい実験をいくつも計画し、実演をしました。
後に彼は王立協会の事務長となりました。
彼は光の性質に夢中になり、1665年に著した「ミクログラフィア」の中で光の波動理論を提唱し、薄膜を通る光の色に関する実験について記しています。
ニュートンが大著「プリンキピア」を著わす20年も前に、フックは重力と求心力の釣り合いを基に惑星の運動の理論を考え・・・
そして、地球と太陽との間に働く引力は両者間の距離に反比例することをニュートンに示唆したのでした。
1666年9月のロンドン大火のあと、フックは数人の友人達といっしょに市街の復興計画に関係することになりました。
行政官たちは彼の提案になるロンドン市の再建計画にすっかり魅了され、ただちに彼を監督官に任命しました。
彼は市の再建に協力して実際にいくつかの建物をも設計しています。
17世紀におけるもっとも功績ある科学者の1人、ロバート・フックの名前は中学生なら「フックの法則」によって・・・
また機械技術者には「フック継手」という自在継手で知られています。
ロバート・フックは1635年7月18日にワイト島のフレッシュウォーターで生まれました。
子供のころは病気がちだったので、13歳になるまで学校には行きませんでした。
もっと大きくなってロンドンのウェストミンスター校に行くようになるまでは、家で図面を描いたり、機械仕掛けのおもちゃを自分で作ったりして過ごします。
のちにオックスフォードのクライスト・チャーチの聖歌隊貝になって、ここで多くの著名な科学者と接することができました。
彼は科学には深い興味を持っていたし、機械仕事も好きだったので、これらの科学者たちの仕事を手伝うことになります。
有名なロバート・ボイルの助手として、ボイルが歴史的な気体の実験に用いた空気ポンプの製作に携わりました。
・・・しばらくして彼は振子と時計用のばねについて自分自身の研究を行いました。